最終的に全国39[1]あった旧制高校の中でも、明治期に創設された第一高等学校から第八高等学校までは、早期から政財界に卒業生を送り込み後発の学校よりも優位に立ったため、他との区別で、特に「ナンバースクール」(「n高」から)と呼ばれた。このため、新制に移行した後も「ナンバースクール=エリート校」という尊称のような慣用句的用法として残り、各自治体での旧制中学時代も含んだ主に公立高校を中心(一部では私立高校でも)に、数字の付された学校を無垢フローリング に「○○のナンバースクール」などと呼ぶことがある[2]。 第六高等学校以降は地元の誘致の熱意もその設立に大きな影響を与えた。第六高等学校の誘致には岡山と広島がその座を争い、メープル ウォールナット では代議士が国会議場の外で掴み合いになったといわれている。 第七高等学校の場合は松本に内定していたのが諸般の事情で急遽鹿児島に変り、また第九高等学校の設立を巡っては新潟と松本の間で熾烈な誘致合戦が起こり中傷合戦に至る泥仕合化したが、最終的に「第九高等学校」と命名するのは避け新潟高等学校および松本高等学校と地名を付けることで決着した。 以後の設立高校の命名にはこの事態を考慮し学校所在地に倣った命名になった。これらを先の「カリン ナラ チーク 」との対比・区別の意味で「地名校」或いは「ネームスクール」と呼ぶ場合もある。 第二次高等学校令は、1918年(大正7年)12月6日に公布され、翌1919年(大正8年)4月1日に施行された。高等学校の性質についてはこれを「高等学校ハ高等普通教育ヲ授クル所トス」とした。高等学校の構成については高等科3年・尋常科4年の7年制を基本とし、例外的に高等科だけの学校も認めるとした。尋常科は中学校の課程に相当するので予科の設置を認めた。高等科卒業者のために修業年限1年の専攻科を置くことができるとし、その修了者には得業士の称号を与えることにした。 高等科の入学資格は高等学校尋常科修了又は中学校第4学年修了程度(改正前は当時5年制であった中学校卒業程度)とし、年限短縮を実現した。この修業年限短縮についての問題は以前から高等学校制度改革の根本にあったものである。尋常科の入学資格は小学校又は国民学校卒業時とした。 1918年以降、高等学校は政府でなくても設立できるようになった。主な例として私立では三菱財閥の岩崎家が成蹊高等学校、阪神地区の財界人が甲南高等学校、公立では地元の素封家が県に莫大な寄付をして設立した富山県立富山高等学校がある。また、明治時代に宮内省が創設した学習院は華族の子弟の教育のために設立されたものであるが1921年以降制度的に旧制高等学校と同等に位置づけられた。 これらの学校は尋常科(4年制)、高等科(3年制)からなる7年制高等学校(学習院は尋常科にあたる中等科5年を併設した8年制)であり、一度尋常科に入学すれば帝国大学への進学が保証された。 一高をはじめとする官立の高校の多くは当初の形態通り3年制の高等科だけを置いた。 第二次世界大戦後の学制改革によって旧制高等学校は旧制大学や無垢材 の高等教育機関と統合して、その多くは新制大学の教養部や文理学部の母体となった。 旧制高校在学中に学制改革によって新制大学に入学した人物には作家の野坂昭如(新潟高等学校から新潟大学、のち早稲田大学)、高橋和巳(松江高等学校から京都大学)、開高健(大阪高等学校から大阪市立大学)、小松左京(第三高等学校から京大)、井原高忠(学習院高等科から慶大)、旧制大学を前身としない大学学部卒で初めて事務次官になった小長啓一(第六高等学校から岡山大学)らがいる。また映画監督の山田洋次は山口高等学校在学中に学制改革に遭遇し新制東京都立小山台高等学校から東大に進んだ。 学制改革実施前、「高速バス 夜行バス 高速バス 夜行バス 」としての旧制高等学校存続を模索する動きもあったが幻に終わった。 旧制高等学校を懐かしむ卒業生は戦後においても日本寮歌祭を開いたり「日本の教育改革を進める会」を結成して旧制高等学校の長所を訴えた。しかし、あくまで国立の高等教育機関としての復活を希求していたせいか私立でエリートに対する一般教養教育の沖縄旅行 大学や高等専門学校を設置する動きはなかった。ただし公立ではこういう学校が存在した。1950年に設置され、1955年に廃止された和歌山県立理科短期大学がそれである。 新制東京大学教養学部の設置は、旧制高等学校の教養主義的な伝統を残そうとした動きである。また終戦直後に国際基督教大学(ICU)教養学部の設置に携わった旧帝国大学卒の有力者たちは、そのリベラル・アーツ・カレッジの理念に旧制高等学校の善さを継承させられる可能性を期待した。 入学資格は、高等科は高等学校尋常科修了又は旧制中学校4年修了時、尋常科は小学校又は国民学校卒業時だった。 高等商業学校などの専門学校の入学資格は旧制中学(当時5年制)卒業程度であったが、高等学校は下記のとおり7年制高校の出現により1年間の「飛び級」が認められていたため、高等科の入学資格はそれより1年早い旧制中学4年修了であった。このため4年修了見込で高等学校を受験するのが一般的であり、合格するものも数多くいた。 1894年の高等学校令に基づく初期の官立高等学校はすべて3年制だったが、1918年の新高等学校令では修業年限は尋常科4年と高等科3年をあわせて7年が基本とされた。しかし、旧来の高等科のみの設置も許されたため、実際には官立の多くは高等科のみの3年制であり、逆に私立はすべて7年制であった。 なお、太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び高速バス 格安 高速バス 大阪 高速バス 京都 高速バス 神戸 高速バス 東京 に改められた為、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。 大学予科は第一部(法・文)、第二部(工・理・農)、第三部(医)に分かれていた。分類例を挙げると法科志願者のうち、英語を主とする科は一部英法、ドイツ語を主とする科は一部独法、文科大学志望者のうち、英語を主とする科は一部英文、ドイツ語を主とする科は一部独文などである。高等学校令改正の影響により大学予科は高等科に名称を改め、文科と理科に大別され、履修する外国語により、文科甲類(第一外国語が英語)、文科乙類(ドイツ語)、文科丙類(フランス語)、理科甲類(英語)、理科乙類(ドイツ語)と細分された。理科乙類は医学部進学コースとなっていた。但し、フランス語を第一外国語にする類を置いた高校は第一高等学校・第三高等学校・静岡高等学校・大阪高等学校・浦和高等学校など少数にとどまった。 帝国大学の入学定員は、旧制高校の卒業者数とほぼ同じだったので、志望する学科を選り好みしなければ、高速バス 関西 夜行バス 格安 夜行バス 大阪 夜行バス 京都 夜行バス 神戸 夜行バス 東京 夜行バス 関西 の帝国大学進学を保証された。このため地方の帝国大学や官立大学では募集学科によって定員割れが生じ、京城帝国大学や北海道帝国大学など後発大学では独自に「予科」を設けて早くから質の良い学生を確保する手法をとった。 なお、帝国大学の定員割れは、旧制高校卒業・卒業見込者での充足が優先された。したがって、高等師範学校や高等実業学校からの進学希望者は形式的には欠員補充であったが、帝国大学では定員充足を理由に傍系入学という扱いで入学を許可されていた。傍系入学者は特に東京・京都以外の帝大では比較的多く見られた。 一方、一般的に医学部、東大京大の人気学科は志望者が多いため、倍率が2倍、3倍となることも少なくなかった。もっとも東大法学部の場合、試験範囲は英文和訳、和文英訳のみであり、今風に言えば入ゼミ試験のようなものであった。これら人気学部・学科への進学においては浪人するものも少なくなく、白線浪人と呼ばれた。 旧制高等学校群に於いて初等教育機関を包含していた学校は甲南、成城、成蹊がある。これらの小学校への入学が東京帝国大学をはじめとする帝国大学群への進学に直結することとなり人気を集めた。なお、旧制高等学校ではないが、学習院も初等教育機関を包含していた。