旧制高校生の典型的な身なりである、白線帽にマント、高下駄を履き、寮歌を高吟して街を練りあるく姿は多くの中等学校生徒の憧れであった。白線は二条または三条であり、旧制高校生の象徴であった。しかし私立高校では白線帽を被らせない学校もあったので成城高校のように生徒がそれを不満として「白線運動」を起こした所もあったという。一方日大予科などでは旧制高校とそっくりな白線帽を被っていた。 第一次世界大戦の好景気に沸く日本は同時に工業力の大発展を遂げ、帝国大学の増設や学生定員の増加が社会的に求められることとなった。これに対応して高等学校の数も増やす必要が生じるに至り、1918年(大正7年)、原敬内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が4450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。 その計画では大正8年から6年計画で、官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農林(農業)学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。 この際に新潟と松本の間で「第九高等学校」の名称の奪い合いが起きたため番号をやめて地名を用いるようになり各地にネームスクールが誕生することになった。高等学校の増加で番号による区別が困難になったこともその一因である。 七年制高等学校(尋常科4年・高等科3年)は制度的に高等教育機関と位置づけられているものの、実質的には一つの学校で中等・高等教育機関を兼ねていた。 しかし、東京高等学校尋常科は設立からわずか13年、授業開始から12年で廃止されることになり、その後も大阪府立浪速高等学校尋常科、公立から官立に移管した富山高等学校の尋常科も相次いで廃止された(東高尋常科は戦後の一時期、募集を再開)。官立、公立で尋常科を持つのは台湾総督府が所管する台北高等学校と東京府が設置した府立高等学校のみとなった。 学制改革に際しては、高等科は新制大学へ尋常科は新制中学校・高等学校へ、それぞれ移行したと考えるのが一般的である。 学習院は学習院学制に基づいて設置された官立の学校である。また、宮内省直轄という特殊な教育機関であった。当初は初等学科(6年)、中等学科(当初は6年のち5年)、補習科、高等学科、大学別科(1905年廃止)などが置かれていたが1919年に初等科、中等科、高等科と改称され学校教育法が施行されるまでその体制が続いた。 当初の学習院学制では補習科および高等学科は中等科の卒業生を対象とした2年制の教育機関という位置づけとなっていた。明治期から大正期にかけては帝国大学への進学も完全に保証されたものではなく高等学科の卒業生は帝国大学側に定員割れが生じた場合や院長の推薦によりのみ帝国大学への進学が許されるなど制度として一定していない。 他の旧制高校高等科卒業生と全く同等の帝国大学への進学許可が制度的に保証されるようなったのは1921年の文部省令第二七号によるものである。 戦後に医学・美容整形 教育は大学(旧制大学)で行うこととなり旧制医学専門学校あるいは旧制歯科医学専門学校は旧制大学に昇格したが、この内いくつかは大学昇格の基準を満たすことができず在校生徒救済のために旧制高等学校に改変された。これを戦後特設高校と呼ぶ(ただし官立徳島高等学校は異なる経緯で旧制高校となった)。医大の予科的な位置づけであり一部は学制改革時新設された新制大学に包括された。 旧制高等学校に類似するものの(高等学校令に基づかないで設置されたもの)個別に連携された大学へのみ進学を前提とした高等教育機関でありこの点は旧制高等学校とは制度的に大きく異なる。 旧制専門学校(きゅうせいせんもんがっこう)とは、レーシック において学校教育法が施行される前の、専門学校令に基づいて専門教育を行っていた高等教育機関のことである。 なお、現在の日本における専門学校とは、専門課程を有する専修学校が称することができるとされている(学校教育法第82条の4)ものであり、現在の専門学校は、旧制専門学校と系統をまったく別にするものである。( 研数学館(けんすうがっかん)は、東京都と千葉県、埼玉県にあった大学受験予備校である。日本で一番創業が古く、多くの著名人が通ったことでも有名であったが、2000年(平成12年)3月末に大学受験生の減少を理由に予備校業務をエステサロン した。経営母体は財団法人研数学館。設立時のモットーは「研数理開宇宙(数理を研(みが)き宇宙を開く)」。本部は東京都千代田区西神田二丁目。 1897年(明治30年)に奥平浪太郎が開校した数学の私塾を創始とする。その後、1941年(昭和16年)に文部大臣により財団法人研数学館の設立許可を得、理数系の旧制専門学校である「研数専門学校」を設立した。その後の学制改革により、1955年(昭和30年)に大学受験の専門総合予備学校として新たなスタートを切る。視力回復 は東京校本部校舎・本郷校舎、津田沼校、春日部校の3校舎を展開したが、本郷校舎と春日部校舎は後に閉校。2000年3月末をもって予備校業務より撤退し、東京校、津田沼校が閉校となった。 戦前の多くの予備校が戦後、大学法人格を得て大学経営に移っていったのに対し、予備校としての経営を一貫して続けた。戦争中は徴兵猶予の目的で入学する学生を受け入れ、多くの若い有用な人材を戦争から守った。 現在は、理学研究者の支援を目的とする法人として存続しており、主に教員向けに「連続セミナー」と題する講演会の開催などを行っている(講師は坪田耕三(筑波大学附属小学校副校長)ほか)。 予備校業務からの撤退後も法人本部は東京校本部校舎に所在しているが、本館とA館は文化学院(2005年1月までは大正大学)に、別館は居酒屋和民に、B館は資格指導のクレアールに貸し出されている。なお、東京校本郷校舎は学校法人昭和一高学園に、津田沼校は河合塾に売却された。駿台予備学校(すんだいよびがっこう)は、東京都千代田区神田駿河台を本拠に全国各地に校舎を持つ大手予備校である。河合塾・代々木ゼミナールと並ぶ三大予備校。略称は駿台(すんだい)。許認可の関係上、校舎によって学校法人駿河台学園、学校法人駿河台西学園、学校法人駿河台南学園の3法人のいずれかに属する。旧称は駿台高等予備校。関連する塾として東大進学塾エミールがある。 学校法人駿河台学園、学校法人駿河台西学園、学校法人駿河台南学園、学校法人駿河台大学、駿台文庫株式会社、駿台曜曜社株式会社等のグループ関連法人は、事実上一体的に運営されており、人事採用や異動も一括して行われている。学校法人駿河台大学および学校法人駿河台西学園に属する駿台甲府高等学校・駿台甲府中学校・駿台甲府小学校とは姉妹関係にあるが、駿台学園中学校・高等学校(東京都北区)とは無関係である。また、明治大学では紀要や校友会名称として「駿台」の名称を使用しているものの、同校とは資本的には一切関係がない。ただし、創立者の山崎寿春は元明治大学教授であり、その息子で現・駿河台学園学園長の山崎春之は明治大学商学部出身である。現・駿河台学園理事長の山崎良子は山崎春之の妻である。